これ
- プラープダー・ユン
プラープダー・ユンは1972年1973年バンコク生まれのタイ人で、バンコク在住の物書き。主な執筆ジャンルは小説、エッセイ、評論など。映画の脚本も行ったこともある。アメリカでアートスクールに通っていたので、デザインやアートの仕事も行う。(修学後、一時アメリカでデザンの仕事をしていたこともある。)美術のキュレーションや編集業も行う。で文筆業では、東南アジア文学賞というタイでは一番注目度が高い文芸賞を受賞した功績と、(そしてこれは蛇足なんだけど彼を語るに絶対に出てくるトピックで)ジャーナリストで偉大な父親スティチャイ・ユンを父親に持つ事(要は「ああ、スティチャイの息子ね」ってみんなが思うってこと)、その二つでとても有名になった。
- 東南アジア文学賞
本人はとても優秀な人で、東南アジア文学賞受賞した以外にも、書籍のデザインによって「タイのブックデザインをかえた」(ぼくのタイ人友達デザイナー談)とか、「プラープダーさんは天才」(タム談)とかっていう話よく聞くし、影響力もある(facebookのお友達4000人超え)。若い人が一目おくインテリのアイコンみたいな感じなのかな。タイフーンブックスという小さい出版社を営んでいて、そこからタムの本など出していたりもする。余談だけど日本のことも好きで、昨年は奨学金もらって日本に滞在して研究をしていた。
プラープダーには日本語訳書として、「地球で最後のふたり」(浅野忠信出演の同タイトル映画の脚本本の訳書)、「鏡の中を数える」(短編小 説集)、「座右の日本」(エッセイ集)の3冊の本がある。他にもbookexpressの小冊子でエッセイが読める。)。パンダの翻訳者宇戸清治(ぼくに とっては「先生」なのだけれど。)の選定で文芸誌「新潮」に過去に短篇2本、「バーラミー」と東南アジア文学賞受賞作の「存在のあり得た可能性」(「鏡の 中を数える」収録)が掲載されたこともある。
- 『パンダ』
この『パンダ』は2004年に発表されたプラープダーの長編の日本語訳。原題もタイ語で「パンダ」そのまま。2011年3月末にやっと日本で読めるようになった。
さて、本書の内容だが、パンダというニックネームの主人公が「自分はパンダ・プラネットからきたパンダ星人に違いない」と信じていて、その「生まれ星」に帰ろうとする日々に記した日記のようなメモ11編からなる。自分をエイリアンと信じる主人公の心の動き、行動、周りの人々とのやりとり、ネットのなかでのやりとりなどが描かれる。
この本のメッセージの要約は作者が本書冒頭で引用する2編の文章そのまんまかな。
心の奴隷から自分自身を解放しろ。
自分以外に心を自由にすることなんてできないのだから。
Bob Marley, "Redemption Song"私たちは物事をあるがままになんて見てはいない。
自分がみたいようにみているだけ。
Anais Nin
このテーマがパンダさんの手記とともに表現されている。ぼくはとても面白く読みました。
そしてそのストーリー以上にすごく感動したのがこの本のあり方。とても自由な本だなと思った。
- 自由
ぼくはこの本を読んで、本書の解説にもあった(ような気がするけど)タイの文学がカッコ付きの「タイの」とか「あの象の国の」とかっていう呪いからやっと解放されたかなーという気がした。
この本の中では、ファラン(白人)がビーチにいる様子とか、日本人がイメージする売春とか、トムヤムクンとか、バックパッカーとか、マッサージとか、象さんとか、つまり旅行のガイドブックに載っているようなというか、ステレオタイプなタイっていうものが出てこない。
かといって、無国籍感ただよう話なのかと言うとそうでもなくて、最近のバンコクにいるバンコクの男の人の話で、普通にタイの若い人が知ってる、そして我々日本人みんなも知ってるバンコクが舞台だ。最近のこんがらがってるタイの政治の話もでてくるし、あそこのデパートがどうしたとか、電車にのってチェンマイ行ったとかローカルなトピックもでてくる。だけどそれがなんていうか普通に、「タイ人だし、バンコク住んでるし、今のタイの社会で生きてるし」っていう感じで話の中にでてくる。
「そういうユニバーサルなプレゼンテーション形式のグローバリゼーション的な小説なのでしょう?」というかとそうでもなくて、文章の遊びもタイ語でしかできないものもあって、ちゃんとタイ語で書く意味もある(所々に日本語でも解説があるのでわかる)
つまりこの辺の些事加減がものすごくバランス良く表現されている。
優秀な編集者プラープダー・ユンのバランス感でもって、優秀な物書きプラープダー・ユンとして世界のだれが読んでも「ふつうに面白い話」を普通に書いてる。だから別に日本にいる僕らが読んでも「ふつうに面白い」。外国のぼくらがタイ人と同じレベルで普通に読める。
そうなんだよね。もう「タイの」って枕詞なしでいいじゃない!「ポールオースターの新刊いいよね」とか、「カズオイシグロの新刊つまらん」とかと同じようにタイの翻訳小説を日本で読んで、「プラープダー・ユンの新刊ふつー」とか「今回のは面白いわ」とかそういう物の言い方しても良い頃でしょう。
そりゃあぼくが冒頭にくどくど書いたように「タイの作家でー」みたいなのはタイ人なわけで当然でてくる話だけど、でもそれと「ああ、あのゴーゴーバーでおなじみの国の人が書いた文学なんだな」とか「トムヤムクン飲んでる人たちが書いた話ってどんなの?」とか思うのはレベルが違う話。
で、なんていうかそういう当たり前のことを「これみよがし」でなく、できている良作がこの「パンダ」なんだと思う。(バーラミーって面白かったけど、こういう意味のバランスがちょっと悪かったように思う。)
そういう意味で自由な作品だなと思った。僕はラッタウットの観光 はいまいちだなあと思っています。面白いけどね
翻訳はかまさないと辛いけど、それが数年遅れでも、日本で読めるのはすばらしい。でもしょうがないよね。オースターの作品だって、柴田先生がんばれ!さっさと訳して!って思いながら待ってるんだもんね。でもそういう感じでプラープダーのあの作品まだかなあ?なんて思えたらなんて幸せでしょう。こういう時代にもう我々は生きているのかも。楽しみですね。
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